愛だろっ、愛。〜吾輩らはプロである〜

 

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このコピーはサントリーザ・カクテルバー(1993年~)のもので、永瀬正敏出演によるコミカルなテレビCMが記憶に残っています。コピーライターの佐藤康彦氏は、「世の中って冷たいな」という思いから出た言葉なんだよね。「愛だろ、愛っ。」という言葉に、世の中つめてえんじゃないの? というメッセージを込めた。と、インタビューに答えていました。


今回は、生徒への「愛」。また、それを実らせるための「業務の追求」といった職業観での「仕事愛」について書いていきます。

 

まずはじめに、前回の沖汐先生のブログ「生徒の成績が上がる授業テク!【予習編】 」を受けて、前回の田村先生の記事をリレーしたのと同様に、観点を深めていきたいと思います。

 

前置きとして、今回の文章は面倒臭い文章です。でも、これを読めるか読めないかは結構重要です。つまり、「何度も咀嚼し切るまで読み返してください」ということです。

 

まず、前回の内容の振り返りをしていきましょう。

「想いは手法の上流にあり、しかし手法なき想いは無力なり。」

という吉田松陰の言葉を柱に、

新たに扱う単元における「既習単元との接続」について

②例題に使用する数字の設定について

③単元を抽象化して理解する力について

という流れで、「授業準備に関する心構え」と「準備項目」について解説し、最後にタイトルの回収として、

手法の追求をしたかった訳ではなく、生徒の成績向上や、地域の子供たちへの受験を通した成功体験の提供を目的とし、その想いを果たすため、飽くなき自己否定としての「授業改善」を行ってきた”

と締め括り、授業改善はあくまでも手段でしかなく、その根底に生徒の成績向上への想いを持っていることが大切だと言っていました。

 

おいっ!吉田松陰!「想い」とはなんぞ!?

しかし、「想い」と一口に言ってみても、「志」といった高尚なものか、他者へ自然発生的に抱く感情程度に留まるものか、はたまた対象への慈悲深い愛にまで昇華されるものなのか、曖昧さが拭えないこの「想い」という言葉に対し、吉田松陰の言葉を前提とし、新たに定義づけしてみようと思う。まず、「想い」という言葉を「愛」に置き換えてみると、この後論じる展開が見易くなるかもしれない。

「愛は手法の上流にあり、しかし手法なき愛は無力なり」。

「愛していると一方的に叫び続けるDV夫」VS「愛の言葉は少ないが、行為や行動の中に愛が潜んでいる夫」と考えると、どちらが本質的な愛なのか、より一層想像し易くなると思う。閑話休題、職業における想いや情熱を高い水準で果たす時、「愛」というものが業務に宿る。業務自体やその対象(生徒)への行為(ex.授業や面談などの直接的関与と、宿題等で扱う問題のレベル調整や進捗管理等の間接的関与)の追求の中には、対象を深く見つめ解決すべき点に気が付くだけの「観察」と、観察を基にした業務内容・項目の列挙〜その効果性を見極めるための「分析」と、成果から逆算した手法の有効性を想像する「仮説」等のプロセスがあり、これら一つひとつを高水準で行い、またそれらの繋がりを意識し、連動させることで、目標達成に向かう業務の「基盤や地面のようなもの」が作られる。このプロセスによって生まれる基盤や地面というものは、愛の技術を底支えするものとなるため、頭に留め置いて頂きたい。

※目標達成に必要な各種要素が揃っている状態を、認識や現状の「地面が揃う」と言います。今の立志はこの地面が揃っていないこと(業務内容や社員間の認識の齟齬)が多いため、それらを改善すべく本ブログが存在していることを添えておきます。

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※再掲:業務レベルアップのプロセス

上記のプロセスを「授業力」に当てはめてみると、前回のブログの①〜⑤のプロセスとなる。①生徒の学習上の理解の現在地や精神状態を鋭く深く見つめる「観察」、②授業内容や進行が適切かどうか見極める「分析」、③生徒の実態と実施する授業に乖離が起きないよう「仮説を立てる」、④仮説に基づいた「アクションの効果性の検証→確信に変わる」、⑤効果性が立証された「アクションの強度」を増し、継続実施するといった感じである。伝わった状態から逆算することで生まれる仮説と実践の繰り返しが、授業をより高い水準に変化させていくことが想像できると思う。前回沖汐先生の記事で書かれていた「想い」を表現するための授業改善【予習編】は、このような段階を経て実現されるのです。生徒の変化成長を目的にした、「飽くなき自己否定」という授業改善を追求すべく、今回は、「想い」=「愛」という不確かなものの本質に迫ることで、生徒対応において必要な各要素への気づきに繋がるよう書いていきます。

 

さて、前置きが長くなったので、そろそろ本題に…。

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エーリヒ・ゼーリヒマン・フロム(Erich Seligmann Fromm、1900年3月23日 - 1980年3月18日)は、ドイツの社会心理学精神分析、哲学の研究者である。※『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/

心理学者のエーリッヒ・フロムは、このようなことを言っています。

愛はコントロールできない感情などではなく、愛は「技術」であり、愛の問題は「愛する能力の問題」である。そして、愛の技術を習得するためには、愛する技術に最大の関心を寄せ、その理論を学び、習練に励む必要がある。そして、もし愛に技術が必要であるならば、その技術の獲得には知識と努力が必要だ。愛は心の中にあるだけでは、ほとんど幸せを生まないし、相手にも伝わりません。愛の行為が必要なのです。そして、行為には技術が必要だと。

う〜ん。なんとも深い…。

生徒への「合格させてあげたい」という想い(愛情)を実現・成就させるためには、技術が必要であること。また、成績アップや合格させる技術の習得には、そのこと自体に最大の関心を寄せ、理論を学び、修練に励むと置き換えられます。そして、その技術獲得は想っているだけでは実現せず、入試情報を調べ、合格に必要な得点を取らせるための授業研究・教材研究といった具体的な行動が必要であると置き換えられる。

至極当然の理屈ですが、愛にまつわる思想と生徒を合格させていくプロセスに普遍的で共通のプロセスがあることが分かると思います。

「愛する」は気をつけないと自己中心的なものになる!?

ただし、愛というのは難しいもので、それを向ける対象や、状況によって変動してしまう。例えば、愛する我が子がコップに注いだ牛乳をこぼしてしまった時に、自分に余裕がある時と、忙しい時とで、自分自身の感情が異なってしまうし、我が子と他人の子供とでは、同じ行為に対しても抱く感情は異なってしまうだろう。

「実の親」と「親ではない」という対象者との関係の違い、牛乳をこぼされた時の自分自身の精神状況によって、愛の姿は簡単に変わってしまう。

関係性から生じる「愛の歪み」「取引」について

前述の条件付き愛情を、技術を駆使した愛に変化させるには、感情のコントロールや、それを行うためのトレードオフをスムーズに行うことが求められる。実の親子であれば、我が子が健やかに育つことや、子の自己肯定感を高めるために叱りすぎないなどの目的と等価交換(取引)できるし、何より良好な親子関係が生み出す「時間」という得難いものを手にすることができる。「毒親」「親ガチャ」などという言葉が巷を賑わす昨今は、個人主義に傾倒しすぎた資本主義の成れの果てとして、親子間にすら愛が足りていない状況を生んだのかもしれない。

 

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「お金を頂いている」という時点で、愛情(技術の追求)は不可避。

この親子間ですら成立が難しい「愛の諸問題」に我々は挑むことができるのか…。と思われるかもしれないが、「お金を頂いている」という事実を忘れてはならない。生徒との関係は「最初からお金」なのである。月謝という授業料からは想像し辛いが、生徒1人平均年額30万円程度頂いている現実がある。我々は、無償の愛を注ぐことを求められてすらいないのだ。お子様一人ひとりの「より良い未来に繋がる教育投資」として、有償での(それなりに高額の費用を頂き)学力向上・受験合格を提供することが我々の仕事なのだ。お金を頂きその道で稼ぐというのは「プロ」であることを意味する。プロは技術や知識を持っており、そのパフォーマンスが揺らがず一定以上であることが求められる。つまり、逆説的に言えば、親御様が持ち合わせない「学力を向上させる技術・機会・時間」の提供が求められ、その手段としての技術の追求には愛が必要、という構図になるのです。

状況の違いによって生じてしまう対象への感情について

学習塾には、大きく2種類の生徒たちから問い合わせが来ます。

・先々の進路を見据えた事前準備としての入塾

・学力不振に陥ってからの入塾

前者は、入塾から入試本番までの残余期間がある程、当該生徒と関係を構築する時間的余裕があり、その結果「信頼関係」が構築され易い。後者に対しては、入会段階から内心「手遅れだよ」と思うことを禁じ得ない。前者には+αのサービスが提供されるかもしれないし、後者に対しては無意識のうち(当該生徒に関与し、不合格となった場合の自身が引き受けるであろう申し訳なさや落ち着きの悪さを味わいたくない気持ち)に距離を取ってしまうこともあるかもしれない。

しかし、本来生徒自体は「愛されるべき存在」である。(※未熟な存在・次世代の社会を担う継承者・言葉を選ばず言えば、未来の優良な納税者として。)しかし、このような学力格差が生まれてしまう背景には、「保護者の文化的教養&言語力の差」「家庭間の経済格差」が存在し、それらは子供たちへの「教育機会の格差(興味関心や知的好奇心を満たす環境の提供度合い)」、「教育資本格差(教育に対する金銭的サポート)」となり、結果として「所属学校における自己と他者との点数や評価の比較から生じる“敗北感”」を量産していく。このような現実は、子供の自己肯定感なんてものをめいっぱい打ち砕く。教室に来ている姿からは想像だにしない現実が存在し、生徒本人の“自己責任論”で片付けるにはあまりにも残酷だ。大手学習塾のCMにあるような“人生の勝負に向かうための場・青春ドラマの1ページ&ハッピーエンドといった表向きな印象の薄皮一枚隔てた向こう側には残酷な思春期が存在したりする。このような生徒たち(もちろん全員ではない)を前に、我々はベストな対応が出来ているのか。想像力を駆使した「観察」無しに、理想的な指導(生徒の現在地と目標地点を繋いでいく授業や進捗管理)など実現し得るのか。このような感傷の彼岸に立ち、「彼らに提供できる可能な限りが何であるのか」を想像しなければ、理念「変化を生み出し、成長の感動をメイキングする」の実現など果たせる筈もなく、我々は、生徒の資質・能力や人間性に依存した虚しい労働を重ねることとなってしまう。←※過激な物言いですが、教育に蔓延る一側面だと思っています。

 

フロムはこうも言っています。

幼稚な愛は「愛されているから愛する」という原則にしたがう。

成熟した愛は「愛するから愛される」という原則にしたがう。

未成熟な愛は「あなたが必要だから、あなたを愛する」と言い、

成熟した愛は「あなたを愛しているから、あなたが必要だ」と言う。

 

塾内の現象に置き換えるとこうなるだろう。

幼稚な愛は、

「自分のことを慕ってくれる生徒は大事に扱う。」※条件付き動機

成熟した愛は、

「生徒へ共感的・肯定的に接し、成長への具体的な助言を提供することで、生徒から信頼される。」※内発的動機

未成熟な愛は、

「生徒が指示を守ったら教えてあげる。」

「自分の評価に繋がる項目のみ生徒へ指導する。(過剰な営業提案など)」※条件付き動機

成熟した愛は、

生徒の人生が好転していくことを願い、その方法を提示し進捗を指導する。」※内発的動機

 

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条件付きの取引ばかりする人って総じてイヤな奴ですよね...。

文字に起こしてみると、何とも稚拙な行為と思うかもしれないが、教育現場にはこのような場面が少なからず存在する。また、条件付き動機なのか、内発的動機なのかの違いも見えてくると思う。

様々な状況や行為の中に存在する「隠れた悪」を丁寧に阻むことができる人はそうはいない。ましてや、忙しい時期なんてのは兎角その状況や環境に居合わせる「関係性上の弱者」のせいにしがちなのも人間の持つ悪い部分である。しかし、だからこそ、これに挑んでいくことは、自身の人間性を磨くことに他ならないし、他者・他社との差別化が図れる部分でもある。「生徒のせい」にしていませんか?今一度振り返り、注意深く自身を見つめることが”「隠れた悪」を丁寧に阻む”1歩になっていきます。

 

また、フロムは、こうも言っています。

自分自身を「信じている」者だけが、他人に対して誠実になれる。なぜなら、自分に信念をもっている者だけが、「自分は将来も現在と同じだろう、したがって自分が予想しているとおりに感じ、行動するだろう」という確信をもてるからだ。自分自身に対する信念は、他人に対して約束ができるための必須条件である。信念をもつには勇気がいる。勇気とは、敢えて危険をおかす能力であり、苦痛や失望をも受け入れる覚悟である。(略)愛されるには、そして愛するには、勇気が必要だ。ある価値を、これが一番大事なものだと判断し、思い切ってジャンプし、その価値にすべてを賭ける勇気である。人は意識の上では愛されていないことを恐れているが、本当は、無意識のなかで、愛することを恐れているのである。愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。

 

www.rissi.work

これに関しては、最近代表がよく口にしている「生徒や保護者に対して、面談や指導を通して目標点数を宣言してしまおう。」に通じます。要するに「自信のある人間にしかそんなことはできないじゃん!?」と思われるかもしれないけれど、決してそうではありません。上記にある通り、生徒への愛情を注ぐことで、例え自身が注いだ量より見返りが少なくとも、少しずつ少しずつ自身の業務レベル向上に繋がるよう各種業務の集計数値を追求することで、全員までとは行かずとも、その場に居合わせる大多数の生徒に「想い」や「愛」が伝わります。厳しい言い方をすれば、「自習」「補習」程度の呼び出しに応じてもらえないことに無意識に恐怖してしまうことで生ずる「変化・成長の機会損失」の代償は非常に大きい。それは、自身の人生においても、生徒の人生においても。自ら愛を注ぐことに及び腰な人は、僅かな愛情しか受け取ることがない。

僕は、生まれてきた以上、「超、愛されたい。そして、超、愛したい。」人も物も事も仕事も自然も文化も芸術も。

No pain , No gain. No effort , No effect. No love , No change.

その為には、「Love,Live,Life」

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僕が大学時代、ISETANのフェラガモで見た広告のキャッチコピーで、それ以来好きな言葉として心にある言葉です。解釈は自由ですが、このように生きたいと思う言葉です。

適切な提案には強い使命感と責任が宿る

二学期も中盤に差し掛かり、受験学年はクライマックスへ。2年生は受験へのスタートを意識する季節です。現在、個別部門は冬期講習面談に向け準備が進んでいますが、そこでの提案も生徒の「合格」や「変化・成長」に結びつくものでなければなりません。現状の提案リストは「提案」ではなく提案後の「予想着地点」を記載している側面があります。まずは必要な講座を提案し、そこで家庭の予算面や学習計画等を話し合っていけば良いのです。もしも、医者にかかった時に「適切に診断」されず、また、「必要な医療行為の提案」もされず、病状が回復しない時、私たちはその医者を信用するのでしょうか。高額なサービス(医療・弁護士・コンサルティング等)には高い専門性を求め、その対価として料金を支払います。当然、高い料金を頂く以上、失敗は許されません。講座数を多く提案しなければならない時、生徒に大幅な改善を要求する時、私たちはそれ相応の「プレッシャー」を負うことになります。しかし、そのプレッシャーに挑んでいくこと(授業力向上・進路情報の提供・地方と都市部の情報格差を埋めるための情報提供等の追求)こそが自分たちの成長、サービスの質の向上に繋がり、その結果として信頼を勝ち取り、自身やサービスの価値が向上・浸透していきます。我々も、「子供たちの成績を上げる専門家」であるはずです。「生徒たちが可愛い。」「この子達の成績をなんとかしてあげたい。」「意欲的な生徒へ更なる成長の機会を提供したい。」このような想いは皆さん必ず持っていることと思います。その「想い」を業務に宿らせてこその「愛」です。

 

まとめ

今回は、愛という不確かなものを、エーリッヒ・フロムの言葉を例に展開していきました。愛という抽象概念と、生徒への指導という具体を行き来する読解力が求められる内容でしたが、これこそがAI時代に生きる私達が身につけていくべき「真の国語力」であり、「読解力」でもあります。

これまで、関わりの濃かった数名の社員には伝えましたが、今回皆さんに一律にお伝えしてみようと思います。前職の学級通信やこの幹部ブログで意図しているのは、3000~7000字(学級通信は2000字程度)の文語体で書き、具体と抽象が行き来する文章を意識して書いています。その理由は、大学入学共通テストにおける現代文の字数がこの文量であることと、具体と抽象が織り交ぜられ書かれている点にあります。(語彙レベルは平易なものを心がけており、学者や作家の書いた名著の抜粋と比較するまでもないので悪しからず…。)また、教育系Youtuberの小林尚(東大文1卒→戦略系コンサル→個別指導塾CASTDICE社長)が分析した「灘高入試、大学受験MARCH入試と同じくらい難しい説!」で述べているように、

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MARCHレベルは語彙や知識レベルを求められるのに対して、灘は知識があっても読み解くことが難しい「読解力」を求めらるため、語彙の難易度はMARCHに分があるが、読解力は灘高の方がはるかに難しいとしています。そして、この具体と抽象の行き来が、クリエイティブに仕事をしていけるかどうかの境界線になっており、実社会の中に存在する「見えない線」でもあるのです。

 

「境界線を越えていけ!」

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我々は、学習塾を生業としている。

生徒の人生を「学習面で」サポートすることを通して、

変化を生み出し、成長の感動をメイキングする。

この理念実現のもと、自分たちも言語力・読解力・思考力・判断力・表現力を身につけるべく、互いに情報発信していきましょう。

代表のブログタイトルは「夜明け前」ですが、

今、まさに「夜明け」の境界線を越える

組織の幕開けであるとここに宣言し、

成長への1歩を共に歩んでいきたいです。

 

文責:佐野